2012年07月30日
河原で流しそうめん
昨日は子ども会の「流しそうめん&BBQ」。

まずは竹を割って、流しそうめんの準備。
ノミやサンドペーパーの作業は子どもたちは大好き。

三脚作り。

毎日のように鋸と金槌を使ってるんで、慣れたもの。

完成。

大勢なので、最初は中々下の方までそうめんが流れない。

にこちゃんは最後のザルの所で取る。
子どもたちはみんな、何の作業でも「やらせてー!」の連発。
ノミや鋸だけでなく、竹を運んだりとかも。
大人の役割は何でもやらせる事。
それには、子どもたちに合わせてこっちの補助が必要。
それをめんどくさがっては出来ない。
出来なくても、遅くても構わない。
こういう現場に学校教育型の「比較、競争」を持ち込んではならない。
脱比較、脱競争だ。
大人の出来る事は「信じて待つ」。
待てないのが美しく教育を受けた、僕ら大人。
自然農と自由な教育はリンクする。
「いついつまでにこれだけ出来ないといけない。」
という不自然な枠を勝手に作ったりするから、大変な悪循環が始まる。
子どもにそんなことを課すのは最悪。
大人だって、そんなしょうもない次元から解放されたい。
もちろん、半夏(はんげ、7月の始めごろ)までには稲を植え終わらないといけない。
こういう、「ねばならない」と、人為的に勝手に作った「ねばならない」とは根本が違う。
自然のサイクルに人間が合わせる。
これが当たり前の姿。
そのサイクルにそぐわない不自然な「ねばならない」を辞める。
それが自由とか解放と呼ばれる類のもの。
それでもって、自然のサイクルに合わせられる事を可能にする時間配分が各々に求められてる。
「自然に沿った生活がしたい。」
「地に足をつけた生活がしたい。」
でも、、、。
「年収は〇百万円ないといかない。」
「今の活動で成功を修めないといけない。」
という矛盾の中では、時間配分は難しい。
時間って決まってるんやから、今までやってきた不自然な何かを辞めない限り、余裕を持って草取り出来る時間は持てない。
考えりゃ当たり前。
それを可能にするのは、成功よりも草取りを重要だと思える価値観。
これがまた現代人には難しい?
まずは竹を割って、流しそうめんの準備。
ノミやサンドペーパーの作業は子どもたちは大好き。
三脚作り。
毎日のように鋸と金槌を使ってるんで、慣れたもの。
完成。
大勢なので、最初は中々下の方までそうめんが流れない。
にこちゃんは最後のザルの所で取る。
子どもたちはみんな、何の作業でも「やらせてー!」の連発。
ノミや鋸だけでなく、竹を運んだりとかも。
大人の役割は何でもやらせる事。
それには、子どもたちに合わせてこっちの補助が必要。
それをめんどくさがっては出来ない。
出来なくても、遅くても構わない。
こういう現場に学校教育型の「比較、競争」を持ち込んではならない。
脱比較、脱競争だ。
大人の出来る事は「信じて待つ」。
待てないのが美しく教育を受けた、僕ら大人。
自然農と自由な教育はリンクする。
「いついつまでにこれだけ出来ないといけない。」
という不自然な枠を勝手に作ったりするから、大変な悪循環が始まる。
子どもにそんなことを課すのは最悪。
大人だって、そんなしょうもない次元から解放されたい。
もちろん、半夏(はんげ、7月の始めごろ)までには稲を植え終わらないといけない。
こういう、「ねばならない」と、人為的に勝手に作った「ねばならない」とは根本が違う。
自然のサイクルに人間が合わせる。
これが当たり前の姿。
そのサイクルにそぐわない不自然な「ねばならない」を辞める。
それが自由とか解放と呼ばれる類のもの。
それでもって、自然のサイクルに合わせられる事を可能にする時間配分が各々に求められてる。
「自然に沿った生活がしたい。」
「地に足をつけた生活がしたい。」
でも、、、。
「年収は〇百万円ないといかない。」
「今の活動で成功を修めないといけない。」
という矛盾の中では、時間配分は難しい。
時間って決まってるんやから、今までやってきた不自然な何かを辞めない限り、余裕を持って草取り出来る時間は持てない。
考えりゃ当たり前。
それを可能にするのは、成功よりも草取りを重要だと思える価値観。
これがまた現代人には難しい?
タグ :流しそうめん